小説「朗読者」
老眼が進み、メガネが合わなくなってきたので、文庫本のような小さな字だと追いづらくなってきた。メガネを新調すればある程度は解消することだが、このところ毎月大きな出費が続いているため(今月は車検代)、もう少々我慢というところか。
そんな目で、小説「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク著)を読んだ。映画(「愛を読む人」)では、語り部である主人公(マイケル)の大人になってからの気持ちが、イマイチ曖昧で不可解に思えたからである。ハンナのほうは、映画からもその内面がよく伝わってきた。原作となった小説を読んだ今も、ハンナは映画とほとんど変わらぬ像をくっきりと結んでいる。
マイケルのほうも、別に映画のそれとズレがあるわけではないが、焦点がハッキリしないぼやけた像だったため、小説を読むことで修正を行うことが出来た。それでも、この主人公の内面に横たわる不可解な部分は相変わらず残ったが、それは人間という生き物の持つ永遠の不可解さであろう。文学はそこにこそ存在し息をする。
主人公の独白による典型的な一人称小説で、登場人物も極端に少なく、大抵の日本人を煩わせる馴染みのないカタカナの名前が「ハンナ」以外にほとんど出てこないので、混乱させられることなくすいすい読める。ただ、主人公の内面はかなり複雑だ。おそらく作者がそうであるように、とても内省的な性格なのだろう。加えて知的で繊細で几帳面である。時に、頭でっかちともいう。まぁ、内省的な人物に、後者の性格付けはオプションというよりはセットみたいなものだろうか。
その知的で繊細で几帳面な性格が、読者からすると、他者に対して時に非情で冷淡な行動をもたらすといった印象を受けるのであるが、それは映画でも同じだった。ただ、何度も言うように、映画では普通のレンズでマクロ撮影したような、ぼやけた主人公像になっており、観客には主人公の行動の不可解さが、人間の複雑さではなく、単なる解像度不足といった形で出ていたように思う。つまり、描き切れていなかったということになろうが、まぁ、それでも映画は小説にちっとも劣ることがなく、その完成度は高かったように思う。
小説にはあって映画にないシーン、あるいはその逆もいくつかあるが、総じて映画は原作に忠実に作られている。
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